エッセイ集

        「父の最後の言葉」


病床にあった父が意識を取り戻したという。病院の一室に足を運ぶと

父は窓外の景色に目をやっていたが、私に気づくと

「愚かかねー人間は。ワヤばい。みんな破壊して。瓦礫の山・・」と

同じ言葉を呟いていた。それは父の戦争の体験の記憶だった。

それまで戦争について語ることはなかっただけに、

父の中にもそれが生々しい爪痕を残していることを知った。

思えば父が終戦を迎えたのは17の歳で、

思春期の最も多感な時期をその中で過ごしたのだった。

10代の頃は特攻隊を志願した命知らずの荒くれだった。

その頃の身を張った、口にするのも憚れるような陰惨な喧嘩も

耳にした。

それも2度3度ならずで、父の兄弟や知人達がそれとなく語るだけで、

父自身は口にしようとはしなかった。


末期癌の進行に伴う意識の混濁の中で、父は己の過去に立ちかえって

いくかのようだった、そこでは父の中の二つの<顔>が露わになった。

父が付き添っていた私の名を呼ぶ。恫喝する低く唸った声だった。

私はこれまで父のそんな声を聞いてはいなかったろう。

今の父は10代の荒れていた頃の父なのだろう。

警察官に殴りかけた拳を交わされて壁に打ち付け、包帯で腕を

吊るしていた父。ともかく私は父が恐かった。

怒ると手におえなくなるからである。

私も周りもそんな時は逃げるより他仕方がなかった。

父が何か口づさんでいる。ジョン・レノンの「イマジン」か?

先程とは打って変わった柔らかい声で私の名を呼んでいる。

私が目にしてきた、後年の文化人めいた父だった。

私には荒事をしないようにとピアノを習わせ、みずからも日がな一日ピアノを

弾き、油絵を描いたりしてすごしていた。

還暦を過ぎた辺りで父は目を二重に整形し、茶髪に染めてきた。

顔にしまりがなくなり周囲を笑わせたが、父は存外真面目な様子だった。

父は失われた青春を取り戻そうとしているかのようだった。


その日は父の意識が戻っていた。途切れがちに父は私と話をしていた。

「俺の10代は」父が言った「やくざ同然だった。思い出したくもない」

仰臥している父の目が虚空を仰ぐように天井に向けられた。

私はその時の打ち震える不安と苦しみに捉えられた眼差しを

忘れることができない。

父の言葉は死を目前にした人間の嘘偽らざる告白だったのだろうか。

ともあれ父が最後に残した言葉の一つになった。


私は荒くれだった10代の父を否定しようと思ってはいない。

父の世代は戦中派と呼ばれる。

戦争によって青春を奪われ、天皇制国家日本と平和国家日本との

相容れない矛盾や相克を内に抱えながら歩んでいった世代の人間であった。





                   「母」


「悪いお母さんがいなくなり、本当のお母さんが戻ってきてくれてよかった」

そう言うと、養母が困った顔をした。

私が小三の時に父が再婚し、養母と暮らし始めて

間もない頃のことだった。

実母は私が5歳の頃に家を出た。

厳しく冷たい女性だった。

その程度のことしか記憶にない。

だが、それがどこまで事実に基づいているのかと

思うことがある。

祖母の、「あれは母親ではない。本当の母親は大病を患い、

療養して快方に向かっている」という言葉の嘘を

私は信じていた。


二十歳の頃になるまで、私は養母を実母と思っていた。

事実を知っても、実母には関心がなかった。

三十歳の頃に実母は亡くなったらしい。

彼女には一度も会うことがなかった。

四十歳になった頃に、それまで交流がなかった

実母の親族や知人と会った。

口々に「お母さんにはよくしてもらった」と言われ、面喰った。

「母は厳しく、愛情はあったがそれを表わすのが下手だった」と

異父妹は語っていた。

他人に優しく、血を分けた子供には厳しかったようだ。

確かにそういうタイプの人はいる。

実は私もいくらかそういうところがある。

後日、実母の日記が彼女の友人の手を通して送られてきた。

家を出る直前の頃のことが記されていた。

冒頭私と妹に、

「ありのままの自分を見て、できれば許してほしい」と

書いてあった。

私と妹を残して家を出ることの辛さがにじみ出ていた。


リードオルガンの奏楽曲集の中で嵌ってしまった一曲がある。

メロデイラインから瞼に浮かんでくるのは長崎の町並みだ。

斜面に家が立ち、路面電車が走り、すぐ近くに海が見えてくる。

実母が一時期身を寄せ、現在は次男が住んでいる町。

戦国期は南蛮貿易とキリスト教布教で賑わい、

江戸期は海外貿易の窓口となって栄えた。

異国情緒の華やかな文化を育み、歴史の起伏に富んだこの町も

原子爆弾の投下によって空前絶後の苦しみを受けた。

―犠牲になった命への鎮魂の調べのようにも思えてくる一曲である。

7月の奏楽で弾いてみたい。実は礼拝でなじみの曲のようだ。

(私は妻が教えてくれるまで気付かなかったが)

分かる方がいられるだろうか。それが楽しみではある。


(佐世保教会季刊誌、「想起」に寄稿)


[下、エッセイで言及しているCDのオルガン曲(タイトルー「心に愛を」)を、ピアノで

弾きました。下手な演奏で申し訳ありません。ご清聴ありがとうございました]









「カクテルパーテイ」(大城立裕著。沖縄初の芥川賞受賞作)


小説の舞台は、アメリカ軍統治下の沖縄である。

カクテルパーテイの席上で、沖縄人の上原とアメリカ人の主催者の

ミスター・ミラー、ゲストのミスターモーガン、中国人で弁護士の

孫(そん)、日本人で新聞記者の小川等の知的な会話が

弾んでいる。だが、「事件」をきっかけに団欒に亀裂が入ると、

今もなお、アメリカに占領されている沖縄の怒りが上原の中に

噴き出してしまう。私は、小説を読み進めていて

アメリカ人たちの語る道理に分があると思ったものだった。

彼らの語っていることは論理的で知性的だ。

だが実は、読者にそう思わせながら、その「嘘」を暴いていくところに

この小説の狙いがあるようだ。

 娘が、知り合いの米兵にレイプされた。だが、娘は被告だった。

犯した米兵を崖から突き落とし、大けがを負わせたからだ。

合意ではなく、レイプであることが立証できれば裁判は好転するかも

しれないが、米兵は地位協定によって出廷を免れるのだ。

泣寝入りしろ、裁判を起こしても勝ち目はないし、娘の精神的な負担を

思うとその方がましだと、周りは言う。だが、何と言う不条理だろう。

何よりも、「地位協定」によって裁判を公平に受ける権利がないのだ。

これが沖縄の現実であることを、上原は思い知らされる。

「パーテイ(親善)」の虚構と、沖縄の置かれている不条理―

沖縄を<レイプ>したのに、合意であるかのようにふるまってきたのが

アメリカだ。

沖縄は、アメリカとの戦いで四人に一人が死ぬという

実に悲惨な体験をした。

戦後、アメリカは教化と慰撫によって沖縄を取り込もうとした。

戦後の基地建設は「日本を守るため」の「復興」であった。

基地は「雇用を生んだ」(実際は戦争による破壊と欠乏で、

それに頼るよりほかなかった)。

だが、沖縄は基地被害に、とりわけ米兵による多発する犯罪に

悩まされ続けた。

この時代、日本本土は高度成長を謳歌していたのに、

沖縄は軍政の統制下に置かれ、生活は貧しかった。

敗戦のつけは沖縄に背負わされた。日本は沖縄を差別し、

捨て石にして発展した。

それにしても、沖縄人は忍耐強くおおらかだ。

四人に一人がアメリカとの戦いで命を落とし、戦後は土地と家を奪われ、

基地被害を受けながら、なおかつ米国と「仲良く」暮らしている。

モーガンのメイドが、なついてくる彼の子供が可愛くてならず、

家に連れ帰った。彼女はモーガンに断りを入れていなかった。

モーガンは誘拐されたと思い込み、周りを動員して方々探しまわった。

メイドが家に連れ帰ったと知るや、彼はカンカンに怒った。

そのうえ、彼女に精神的、物質的なダメージの代償を求めて

告訴したのだ。何と言うこらえ性のなさ。

上原は、娘がレイプされたと言うのに泣き寝入りだ。

アメリカ的正義と星条旗。あの大義名分のないイラク戦争の時も、

アメリカの論調は戦争遂行に覆われ、反対の声を上げることも

ままならない状況だった。

「星条旗」、「美しい国、日本」、ネット右翼、ヘイトスピーチが

同列に重なって見えてくる。沖縄の声は、そこには届かない。



「カクテルパーテイ」(戯曲)

先の小説のいわば続編である。小説公刊から、三〇年近い歳月が

流れている。

その間に、作者の抱いているテーマは深まっていったようだ。

上原は、孫からかっては加害行為に加担していなかったかと問われ,

日中戦争中にスパイの嫌疑のかかった中国人を切り殺して

しまったことを思い出す。

一方孫は、日本兵によって妻をレイプされ、戦争によって

二人の子供を失っていたのだった。

彼が受けた心の傷も大きかった。被害感情しか持たなかった上原に、

彼はたたみかけるように弟がスパイの容疑で日本兵に殺されたことを、

突きつける。

孫(そん)も心の奥底では、日本を許してはいなかったのだ。

もしかしたら自分が孫の弟を殺したのではないかと思うと、

上原は震え上がる。自分が被害者としてだけではなく、

加害者でもあったという事実。

人間とは、被害を受けたことは覚えていても、加害行為は

忘れてしまうのだろう。被害と加害の重層性。

そこには人間の抜き差しならぬ罪の問題が横たわっているようだ。

人はその自覚が必要なのだと、己を顧みて上原は思う。

孫はその上で、「親善」が必要だと言う。

孫「ミスターミラーの仮面の倫理は正しいと、いまだに考えている。

あなたの傷は私のそれに比べて、必ずしも深いものとは、

私は考えていない。しかし、私は苦しみながらもそれに耐え、

仮面をかぶって生きてきた。そうしなければ耐えられなかった」

生きることの辛酸をなめた者の諦観であり、

中国の長い歴史の中で培った知恵のようにも思える。

確かに、日本と日本兵の暴虐非道さえも水に流そうとする

宥恕の精神が、中国にはあったことを上原は思い出す。

だが、上原は言う。「あなたはやはりこの間、その仮面を脱がなければ

ならなかった。そして生の視線で私たちを凝視して追求した。

日本人が中国で犯した罪を今になって (中略) 15年間その機会を

待ちかまえていたような語調が、あなたにはあった」続けて

「私がお国への償いをすることと、私の娘の償いをすることはひとつだ。

この際、互いに絶望的に不寛容になることが、最も必要なことでは

ないでしょうか。これは人間本来の絶対倫理の問題なのです・」

上原の上の言葉にはこらえ切れぬ憤怒が宿っている。論理ではなく、

感情が人間の復権を目指しているのだ。

上原は、アメリカの参加者を拒否し、カクテルパーテイを去っていく。

「親善」の欺瞞を暴くために、己にも他者にも厳しくならなければ

ならないという態度表明だった。

レジスタンス文学と言っていいだろう。



     「囲碁」


囲碁を覚えたのは、高一の頃のことだった。

反抗期で父と喧嘩ばかりしていたのを見かねて、

囲碁を覚えたら、少しは落ち着くのではないかと

父の弟である伯父が父にすすめた。

それから父と碁を打ち始めた。


高校を卒業するころには、2段で打っていた。

大学では囲碁クラブには入らなかったが、

碁会所に通って打っていた。

碁会所ではだれにも負けることがなくなった。

天狗になっていたその頃に、プロの棋士と打つ機会があった。

こちらが4石置いても、全く歯が立たなかった。井の中の蛙だった。

それから、プロがいる碁会所に通って、金を払い、指導碁を打った。


下は、東京から帰省し、大会に出て

地区大会を抜け出たときに(県大会は1回戦で敗退)

長崎新聞に掲載された時のものである。



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結婚を機に、囲碁を打つのは控えた。

とはいえ、碁打ちは親の死に目にも会えない、の言い伝えを地でいった。

父が亡くなる当日、インターネット碁に夢中になり、

鳴っていた電話の受話器を取らなかった。

病室に着いたとき、父は亡くなっていた。


かれころ10年、囲碁を打っていない。

今では、日曜日の正午から始まるNHKの囲碁番組を録画し、

まどろみながら見るのがなによりの楽しみになっている。




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